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ソーシャルゲームの一位は裸の王様なのか?
その多くは、課金によって他のプレイヤーと力の差異をつけることができる。
つまりはまあ、露天少年がテトリスをプレイする。
綺麗に棒がハマる、しかしブロックは消える気配がない。
1分、やっと下一列が消えた。露天少年の財布がブランドではないからだそうだ。失礼な。
一方で相手のパク揚げ君はDunhillだから、ちんたらぐちゃぐちゃに詰んだブロックがものの一瞬で全部消えたりする。
露天少年はおじゃまぷよに押しつぶされて押し花になってしまった。
こういったシステムの問題点は、プレイヤーがゲームそのものではなく収集に重きを置くようになることだ。
ブルーアイズホワイトドラゴンを多く集めよう選手権になってしまい、肝心の攻略要素が霞んでしまう。
そしてブルーアイズホワイトドラゴンを集めることのできない露天少年は、クソゲーと呟きゲームをやめるのだ。
ゲーム自体は面白いとしても、その他の要素によってゲームそのものも評価が落ちてしまうという悲しいものもある。
内部ステータスだけで優劣が決まるだけの、自称ゲームもあるのだが。
では、そのようなゲームの金メダルとは無価値なのか。
そのようなとは、最低限のゲームスキルさえあればあとは少しの時間と現金投資の差がランキングを決定するゲームのことだ。
そして大概それはもしもしソーシャルゲームなので、ここは一纏めにしてソーシャルゲームということにしてしまう。
ゲームファンにとって、ソーシャルゲームの金メダルはゴミだそうだ。
「金を払うことで50m先からスタートできる100m走に価値はない」と、私が好きなゲームファンは言った。
リオオリンピック100m決勝、ウサイン・ボルトと70mからスタートするのは70億円を払ったラリー・ペイジ。
ウサイン・ボルト世界記録更新の走りも全く及ばず、ラリー・ペイジが見事金メダルに輝いた。
もっともだ。ゴミかも。
見えないデータを着飾った裸の王様を露天少年は嘲笑い、もっと価値のあるものを目指せとご高説を垂れる。
どんなゲームの金メダルならば価値があると言えるのだろう。
コアゲーマーが好む部門には、その答えがあるのだろうか。
プロフェッショナルスポーツとして認定を受けている、League of LegendsとStarCraft2だ。
ゲーム自体の完成度に口を挟む気はない。
LoLは今年に入るまで、StarCraftに至っては今の今も日本語仕様が存在しないことが問題だ。
コアなゲームファンは英語の壁をいともたやすく乗り越えるし、英語が堪能ならばコアでなくともプレイできる。
だが日本のミドルゲーマーに、残念ながらそのようなプレイヤーは多くない。
アメリカのプレイヤーと日本のプレイヤー、同じスタートラインから走っていると言えるのだろうか。
公平だとは思わない。
格闘ゲームでは日本人プレイヤーの多くが世界レベルにあるからだ。
言語問題が関わっていないと言い切ることはできない。
そしてクイズゲームでない以上、語学力とゲーム攻略は全く別にある。
そもそもはゲームが競技性を向上させる目的で選んだスポーツというジャンルが、元来公平でないのだ。
3ストライクで1アウトとルールブックに書かれていても、じゃんけんのように決まった札を使い合うものではない。
アフリカ系はアジアの系より身体能力が高い。
サンフレッチェ広島よりパリ・サンジェルマンは使える資金が多い。
フェルナンド・アロンソやジェイソン・バトンには早く走る能力があるが、マシンポテンシャルがない。
競技性を求め進化し、スポーツというジャンルにまで昇華したゲームはじゃんけんに戻れはしない。
金銭による差に重きを置くのであれば、アスリートの金メダルは金銭による成長なしに得る事はできないことも理由だ。
アスリート競技において、国際水準のトレーニングをするためにかかるトータル費用は年間400万円以上である。
ゲームとの差異は、今や価値観と才能の違いだけだ。
ゲームファンはゲームそのものに対する評価を下すべきである。
順位に対する評価を下すのはエセ哲学でしかない。
一見裸の王様のように見えるプレイヤーも、他のプレイヤーから見れば黄金の鉄の塊をまとったナイトかもしれない。
そして彼らからは、自らが裸の王様に見えているのだ。
我々ゲームファンが勝負すべきは、着飾る服ではなくゲームへの情熱。
ソーシャルゲームだろうとなんだろうと、それは変わらないのである。