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宗教に学ぶ奇跡
夏の甲子園出場校が決まった。
何かとダブルチャンス打線のみが取り上げられがちな、甲子園漫画がある。
Mr.フルスイングだ。
カーブにタイミングが合わず、ロブレベルの大型扇風機と化した猿野君は奇跡を信じ信条のフルスイングを続ける。
キャプテンは、そんな彼に突き刺さる言葉を言い放つのだ。
「努力もせずして奇跡はないよ」
たしかこんな感じだった。多分。
最後まで自分を信じ努力を続けたヤツだけがつかめるものが奇跡だ。
そうやろうか。
努力によって自らの能力を引き上げ、成し遂げたものではないのか。
それを奇跡というならばウンタラカンタラではないか。
果たして奇跡とはなんぞや。
奇跡というと、思い浮かぶものが一つある。
キリスト教である。
元来「奇跡」という言葉は宗教に紐付いていることが多いそうだ。
神の思し召し、チンケなヒューマンなんぞには手の届かない次元からの力が働いている証拠だという。
奇跡の満塁ホームランを打った選手がいるとする。
本来ならば定位置の外野フライになる打球であったが、スタンドまでボールが飛んだ。
なんてことはない外野フライの打球が火を吹いて急加速し、スタンドに突き刺さった。
テレビを見ている露天少年は宇宙人が関与していると叫ぶ。
そのVTRは江南スタイルや淫夢四章より再生され、しかるべき研究機関が徹底的に検証する。
納得するのはマグヌスニキくらいのもので、多くの人々は納得ができない。
物体を動かすのには力が必要で、なにもないところから火を吹いて急加速することもあるなんていう科学は誰も知らない。
これが奇跡だ。
処女出産は有名な奇跡である。今の世の中でそれが起きたとしよう。
テレビを見ている露天少年はチャンネルを変える。
その女性は野獣先輩より考察され、しかるべき研究機関が徹底的に研究する。
死者の蘇生は?水をワインに変えることは?
現に目の前で行われた時、手品やCGでないと判明した時。
それを神の行いと言わずしてなんという。
奇跡とはわかりやすさが大事なんだ。
他の宗教にはあまり学がないのでなんとも言えないが、元来奇跡とは神または神の手下が直接行うものである。
奇跡のホームランがあったとすれば、それは打者が神だったか神がその場にいたという印だ。
残念なことに、生きていてそのような場面に出くわすことは滅多にない。
VTRに残るとまずいのだろう。肖像権の問題とかすごいややこしそうだし。
そして上に書いたものは、大なる奇跡だ。
実はチョコチョコ気にならない程度に奇跡を起こし続けているのかもしれない。
じゃあどうだ、奇跡の定義など不可能なのか。
朝起きてコーヒーを入れてタバコを吸うことが奇跡だとすると、全ての学習は奇跡だ。
ぼくちんはこのような、定義の曖昧な表現が実に苦手である。
「微妙」と同じである。
調味料の少々って何グラムだ?!という人がいるらしいが、そこまでではない。
それは好みというもので定義可能だ。
人によって尺度が違うので、調節する余裕を残してあるのだ。
果たして奇跡とはなんぞや。
ハッキリと定義を決め、聖書に書き記してほしいものである。