■
人生のピーク。
自語り。
刹那主義と長期的な展望は両立しない、という決めつけがあるよね。
僕の中ではある。
桜の花は美しく咲き誇り、儚く散るからこそ美しいのだというイメージがあるよ。
桜の花は刹那的であるのか、刹那的であるだろうね。
ここで終わるのだ。それでいいのだ。
理想的な結論というものは自らのために導くもので、ちょうどハマるネジがあるならそれを使えばいいのだ。
それでは、もう少し見てみることにしようよ。
一般的に桜の名所として立ち並ぶ桜並木の樹齢は、40年程だと言われているそうだよ。
意外だね。2つの意味で意外だね。思いの外短いという印象だよ。
40年そのサイクルを繰り返し、刹那的だと言われていることにもそう。
まったく刹那ってないと思うんだよ。
花が散って終わり。それが刹那主義だよ。なんにも終わっていないんだよこいつ。
一説には、というより「ネットの一説」では60年の寿命だと言われてもいた。
60年だよ。
60年きれいな花を咲かせ続け死ぬ、それは刹那的じゃないよ。
俺が本当の刹那を教えてやる。
そう僕は刹那的に散るのだ!
二十歳で人生は半分を過ぎている(超ご都合解釈)だからね。
19世紀の半分というと、フランスじゃ平均寿命が40くらいなんだ。
そりゃ過ぎとるやろってはなしなんだ。
そういう意味じゃ現代にこれを置き換えるのは無理だとしても、僕は折り返し地点をとうに過ぎたということだね。
今散ってもまったく、憧れる刹那主義でもなんでもないのだな。
醜態をさらす必要があるということだね。
まったくもってまあ、考えていた通りにはいかないものだよ。
よって生きることは素晴らしくはないが、想像している以上に自らは想像できていないということだ。